Large but light, small but heavy

Kanzan Gallery Curatorial Exchange「写真/空間 vol.3」
「大きくて軽い、小さくて重い 」
赤鹿麻耶
 赤鹿麻耶は、空間を写真で覆うインスタレーション、自らの制作現場やプロセスをギャラリーで見せる試み、そして、空き地や銭湯などいわゆるホワイトキューブではない場での一種ゲリラ的な作品発表aを行ってきた。それらは赤鹿ならではの非常に魅力的な「写真」と「空間」の提示であり、まさに「目まぐるしいイメージの撹乱」bを体現する展示だった。一方で、私は赤鹿作品の1枚1枚のイメージにも強く惹かれており、それぞれの写真に集中することで見る者の深層に入り込むようなあり方はないものかと今回の展示を企画した。それは、この新作のキーワードである「夢」を見るという体験と重なり合うという予感もあった。

 とは言え、「写真/空間」という意味ではある程度の結論を自ら出した赤鹿作品を、あらためて、ホワイトキューブで扱うことは1つの挑戦だった。新作の柱となるのは、他人の見た「夢」である。その語り手や赤鹿の友人たちがモデルとなり、「夢」の視覚化を試みている。実質のデビュー作となった「風を食べる」から一貫して、赤鹿は可視化しにくい(または、できない)何かを写真で捉えようとしている。言うまでもなく「夢」もまた、鮮烈に思い出すことはできても、写真に撮ることは不可能である。赤鹿の制作の出発点は、頭の中のイメージへの、疑い、またはもどかしさではないだろうか。それを写真にすることで、可視化しにくい=存在しないではなく、確かに存在する(した)ことを示すのだ。そのためのアプローチが、モデルに細かく指示を出して撮影するステージド・フォト(演出写真)であり、街中などでのスナップであり、それらを混在させることで可視化しにくい「その世界」の存在を確認する。赤鹿の作品は、異なるプロセスを経たこの2つの「空間」から成立しており、展示ではそれを等価に見せようと考えた。それこそが、ホワイトキューブが得意とするところではないかと思う。

 矛盾するようだが、展示方法のディテール(大きさ、並べ方、印画紙の平面性やたわみ、浮かぶことや隔てられることに起因する見え方の違い)には変化をつけた。それは、あらためて写真は紙であり、日常の中で手に触れる機会の多いこの素材にイメージが写されるだけで、こんなにも多様な感覚や感情を喚起されるという事実、そして、このことは日常から容易に(眠るだけで)非日常に移行できる「夢」のあり様にも重なることをささやかに伝えている。そして、こうしたディテールの全てを都合よくコントロールできない一種の理不尽さもまたそのまま見せることにした。「夢」も「非日常」も、綻びがつきものだ。

 そして今回の作品で重要なのは、それらが他人の「夢」の単純な再現ではないことだ。赤鹿は聞いた「夢」の話を自分の言葉に落とし込み、その言葉からイメージを膨らませて撮影を行なった。会場でも、それらの言葉に同じ役割を担ってもらおうと考えた。スクラッチカードのピンク/水色の列より、それぞれ1つを削るーー赤鹿を制作へと導いた言葉はいま再び、イメージとイメージ、夢と覚醒、日常と非日常、言語化できる世界とできない世界、視覚化できる世界とできない世界を緩やかに繋ぐ。

 多くの夢にオチが無いのと同様に、赤鹿の作品にも答えや結論があるわけではない。赤鹿のつくりだすイメージは、硬直した意識を解放し、流れを生み出す引き金であることを、今回の展示で感じていただけたらと思う。
 当展キュレーター 菊田樹子

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a ぴょんぴょんプロジェクト vol.1空き地 http://akashikamaya.com/pf/12.html
銭湯http://akashikamaya.com/pf/13.html
b 椹木野衣氏による2011年度写真新世紀審査評より 「(略)写真を見るときには、たいてい「何が写っているのか」を見てしまいがちですが、この写真には、見るほどに対象が別の物に変化していくような運動があります。写真が絶えず形を変え、謎解きも止まらなくなる。けれども、その正体は結局わからなくてよいのです。目まぐるしいイメージの撹乱があればよいのです。」


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